ロリコンがキモがられる件について

最近、葉巻がマイブームです。



ひさしぶりに、凄く書きたいネタがあったので。

きなこ餅コミックさん「ロリコン性癖と性犯罪の壁…「2次元と3次元が共闘すべき時」http://yusurakinaco.blog92.fc2.com/blog-entry-175.html



まず、私の立場から。
わたしは、

ロリコンペドフィリアでも可)がキモがられるのを、(正しいか正しくないかではなくて)そう思うこともまたありだから肯定しつつ、かつ社会的にその嗜好を持つこと自体を禁止することに対して反対する」
というスタンスを貫いています。
で書きたいことは2つ。



・なぜロリコンが嫌われるのか?

ロリコンを社会的に弾圧すべきか?



まず一つ目から。
これに関しては2つの点から話します。すなわち、生理的な点と道徳的な点について。

生理的な、種の保存という観点からみれば、第二次性徴がある程度進んだ女性に恋愛感情、あるいは性的関心を抱くのが正常とみなした場合、ロリコンは異常となります。

つまり、繰り返しますが(快楽のみではなく)種の保存という点からみれば、子を産む能力がない子供に対する性的関心、恋愛感情を抱くのははおかしいということです。

同性愛を異常とする理由も同じです。



では、快楽という点では?
つまり、種の保存に関係なく子供に対して性的関心を抱くのは異常か?あるいはそこに恋愛という快楽を見出すのは異常か?ということです。

これに関しては、なんとも言えません。
というより、何をもってして異常なのかがいまいち分かりません。
もし、
「成人女性に愛あるセックスを望むことだけが正常だ」としたら、そのほかは異常です。
また、比として少ない場合を異常としたら、異常です。

しかし、
「多種多様な性への関心のあり方があって、どれもあって当たり前だYO!」
という意見を全面的に肯定すれば、ロリコンは異常ではなくなります。足フェチも。マゾも。スカトロも。



次に、道徳的な観点から見て異常か?

これがとっても厄介かと。



ところで、ある時代のある文化圏では、

「『恋愛』の理由が、(普通の)異性と永遠を誓い結婚し愛を育むだけの場合のみ道徳的であり正常、そして善。単なる恋愛感情は不浄なる性への興味の表れであり、全く道徳的ではなく、人間性を陥れるものであり、悪。性的な物自体に関心を抱く人間は、もうすでに人間じゃない。」

ということが、「道徳的に」語られていたのを知っていますか?




つまり、今の多くの日本人が自然に受け入れている、

「恋愛って素晴らしいよね!人間なら誰だって恋愛すべきだよね!恋愛は人間を成長させるよね!恋愛を経験したことのない人間はもう人間じゃないよね!」

「エッチなことって、ちょっと汚い感じはするけど、上手に付き合っていくべきだよね!それができてこそ大人だよね!」

という価値観は、その時代の道徳的観点から見れば筆舌しがたい悪徳でした。





道徳とは、常に時代の流れによって変わり、その時代の価値観が人々の内面に教化されていくものです。



ところで、我々は何が道徳的な行為かについてかなり知っています。

例を挙げましょう。

「嘘をつくな」

「人をレッテル張りし、軽蔑することをするな」

「快楽を中心においた性的なことを思うな。」

「親を敬え」

「貧乏な者を差別するな」

知的障害者を差別するな」

「いじめを絶対に否定せよ」

「同性愛者を認めよ」

などなど。



しかし、我々はこういった文言を絶対視していないでしょう。

もし嘘をつかなければ、社会生活を営むことが出来ない。

我々は、多くの人間を大した理由もなく軽蔑します。

エッチなことは大好きで、親をクソくらいに思うこともあり、知的障害者をうざがり、いじめられる側にも責任があるのではと問い、同性愛をキモく思います。



それでも、我々はそれを公言しません。常識的な人間ほど、言及しません。

なぜか?

それは、そう語ることがすでに不道徳であり、そう語ることが自分にとっていかに害を被るかを予想できるからです。

つまり、社会的観点から見て不道徳なことを思っていたとしても、それを隠し、嘘をつき、道徳的に見せるということは、何よりも利己が優先されます。


カントという哲学者は、これを「仮言命法」と言いました。

簡単に言うと、不道徳で利己的なことを目的として道徳的な手段を用いることです。

つまり、知的障害者を差別しないことは自分を優しい人間に見せるためであり、いじめを絶対に否定することは道徳的なことへの忠実を表すために、同性愛者を認めるのはそれによって信頼を得るために。




では、この点からみて、現在の日本においてロリコンを肯定することはどうなるか?


残念ながら、ロリコンを肯定することは不道徳であり、むしろ否定することこそが道徳的であるようです。

つまり、ロリコンを(嘘をついて)肯定してもなんも得ることがないから否定する。いやそれどころか、否定すると道徳的人間に見られるから否定する。


同性愛と比較すると、面白いのではないでしょうか?




このように、道徳的行為を内面から肯定する人間(つまりここでは、ロリコンがいてもいいんじゃね?と言う人)という人は、他の「常識人」から見れば不道徳であり、また「異常」で「キモがられて当たり前」の人間となってしまいます。


ちなみに、カントの話を続けると、こういう「仮言命法」ばっかりにしがみついて動く人(分かる人は、意志の他律を想起していただくとよろしいかと)を皮肉って、

「もしわれわれの意志の自由が、精神的自動機械の自由・・・だとすれば、こうした自由は根本において、一度ゼンマイをまいておきさえすれば、おのずから運動を続けるような回転肉炙り器の自由以上の物ではないだろう。」(実践理性批判

といいました。



つまり、あるときはゼンマイ1が巻いているから知的障害者を家に軟禁する。

あるときはゼンマイ2が巻いているから知的障害者の人権を擁護する。

あるときはゼンマイ3が巻いているから同性愛を憎み、弾圧する。

あるときはゼンマイ4が巻いているから同性愛者を守る。

あるときはゼンマイ5が巻いているから恋愛を結婚と結びつかない限り否定する・・・・


このゼンマイ5とは、キリスト教がもたらした価値観です。そういう時代もあったんですよ。




さらにロリコンにとって悪い話がまた一つ。

基本的に我々は、いかなる性的な話を、興味深々のくせに、自然に「避けよう」とします。
シモネタは基本的にキモいものですからねぇ。

で、ロリコンというのは例え少女を想い純愛するものだけだとしても、どうしても性的なものを想起させます。だいたい、恋愛とエロを完全に切り離して考えるのはムリがありますしねぇ。

ゆえに、語りにくい。
どんなに人権だとか自由だとか犯罪に手は染めんとかいっても、
「だから少女にエロしたいって考えを肯定したいんだろ?キモ!プw」
くらいにしか思われないことが多い。アア。



さて、ここまでの結論。
なぜロリコンが不道徳であるかは様々な理由があると思いますが(マスコミの偏重報道など)、とにかく現状においては不道徳となっています。ゆえに否定され、嫌われる。







で、次の

ロリコンを社会的に弾圧すべきか?

について。

もうこれは、ネット上のあらゆる場で語られているから改めて語ることは特にないのですが・・・。


とりあえず、社会の秩序を守るためだとか、そういった理由よりリアルで少女に手を出すことについては取り締まってもいいかと。
その取り締まりの程度という問題はありますが。

しかし、ロリコンであること、あるいはそれを示すような猥褻物の取り締まりについてはどうなのでしょうかね?


3次についてはともかく、少なくとも2次を取り締まることについてはいかがなものでしょうか?

2次元のレイプがよくて、同性愛がよくて、触手がよくて、スカトロがよくて、ロリが悪い理由が今のところ見つかりません。


なぜ、(2次か3次かにかかわらず)ロリ趣向を持つことがそんなに「悪い」のか?

この点を、改めて問いたいです。